茶の湯とキリシタン文化
- 庭蟲
- 8月31日
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日本文化は、世界的にも稀有な高い精神性と美意識を内包している。
しかし、それは全くの独自に生み出されたものでも、外来文化を拒絶しながら育まれたものでもなく、異国の文化を日本的な価値観に翻訳し直し、丁寧に織り込みながら成熟させてきた歴史をもつ。
例えば着物について言えば、唐風衣装を簡略化・層重ね化し、やがて十二単や小袖など日本独自の和装に変化させ、色合わせや季節感を重視する日本的感性が強く反映される形となった。
宗教においては、仏教をそのまま受け入れるのではなく土着の神祇信仰と融合させ、「神仏習合」という独自の宗教体系を形成した。
芸術についてあげるならば、中国水墨画の技法を基盤としつつ、より余白や簡素化を強調した「引き算の美学」に寄る日本的山水画を確立させていった。
さらに身近なところで言うと食に関してもカレーやラーメンなど例を挙げるときりがない。
茶の湯文化は、日本の美意識の結晶と呼んでも差し障りないと思うが、それも元々は中国の点茶法を元に禅や数寄の精神と結びつけながら日本独自の侘び茶へと昇華させたものだ。
さらに可能性として、16世紀末、南蛮文化が流入した時期と千利休らによる茶の湯の完成期が重なっているという点に着目すると、南蛮由来の文化や精神性が茶の湯に幾らかの影響を与えたということは十分に考えられる。
利休自身がキリシタンであった記録はないものの、彼の周囲には高山右近をはじめとするキリシタン大名が多く、そこから何かしら示唆を受けていたとしても不思議ではない。
一碗の茶と聖餐の杯
利休が整えた茶会作法のひとつに、一碗の茶を出席者が順に回し飲む所作がある。
この動作は、キリストが最後の晩餐で使徒たちに一杯のぶどう酒を回し与えた場面と酷似している。
ぶどう酒はキリストの血を象徴し、それを回し飲み分かち合うということは、一つの杯を通じて弟子達がキリストの兄弟としてその本質と運命を共有するという意味を持つ。
茶の湯においても、一碗を回し飲む所作は一座建立(いちざこんりゅう)、すなわち「その場の人々が一体となる」精神を表象している。
キリスト教の教義や文化を学び、利休もまた一杯の茶を自らの血に見立てて客人たちに振る舞い、その一碗に皆があずかることで特別な時間と空間を共有しようとしたのかもしれない。
そのようにして茶会を単にリラックスした和やかな雰囲気で終始させるというよりも、一連の儀礼を通して互いの覚悟を問うような、緊張感のある空気をも茶の席に持ち込もうとしたのではなかろうか。
躙口と狭き門
利休の侘び茶における茶室設計で、躙口(にじり口)は非常に象徴的な役割を担っているが、ここにもキリスト教的影響を見出すことが可能だ。
入り口を極端に狭くすることで、内と外の断絶感を高め、より茶室の聖域性を強める効果があるわけだが、この意匠はマタイの福音書にある「狭き門から入れ」の一節にインスパイアされたのかもしれない。
そしてその狭さは武士であっても帯刀したままの入室を許さず、身分や地位に関係なく全員が頭を垂れて入る必要があり、その動線設計によって茶室内での全ての人の平等性を説いた。
この平等さや謙虚さという価値観もキリストの教えと符号している。
織部の降り蹲と水の洗礼
利休の後を継いだ古田織部もまた、異邦の文化を柔軟に取り入れ南蛮渡来の器や意匠を積極的に用いていた。京都・興聖寺に残る「降り蹲(おりつくばい)」は織部作と伝えられ、通常の蹲を超えて儀式的な動きを来訪者は求められる。

深く大きく掘られた地面の下に水鉢があり、訪れる者は階段を降り、水に手を浸して清め、再び地上へと戻る。
この所作は、キリスト教における水の洗礼儀式―旧い自我を滅し、新たに生まれ変わる象徴的行為―を彷彿とさせる。
織部は実際に洗礼の場面を目にし、その印象を庭の意匠へと昇華させたのかもしれない。
さらに、その傍らに据えられた織部灯籠は十字を思わせる形を持つことから「キリシタン灯籠」とも呼ばれており、水鉢のそばに据えられるのではなく、清めを受け地上に上がってくる客人を見守るような位置にあり、この配置にも象徴性が感じられる。
このように異邦の文化の影響が、庭の石や水の設えの中に密やかに息づいている。
茶の湯をはじめとする日本の文化は、異文化も拒まず、しかしそのままの形で受け入れることもしない。日本の地の文脈の中で柔軟に意味を変容させつつ、新しい美の要素として静かに定着させていく。その柔軟さこそが、日本の文化の懐の深さと言えると思う。
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