庭と民藝 ─美を追うのか、美に追われるのか
- 庭蟲

- 8月31日
- 読了時間: 6分
|民藝とはなにか
民藝(民衆的工芸)という言葉は、1920年代に思想家であり美術評論家の柳宗悦によって提唱された概念で、それは名もなき職人が日々の暮らしのなかで作る器や布、家具や道具にこそ、美の本質が宿るという考え方だ。
民藝が尊ぶのは、見た目の華やかさでも、作者の名声でもない。生活に寄り添い、繰り返し使われ、用を果たし続けることで帯びる美しさに重きを置く。
「良く用いられるものには、自然と美しさが備わっている。 それは美を狙ったからではなく、用に忠実であったからである。」
柳宗悦がこう語った通り、民藝において美とは目的ではなく、結果として“宿る”ものである。
用に徹し、素材に従い、無駄を削ぎ、誠実な手でつくられた物だけに本質的な美は現れる。
上流階級のみが手にできる希少で高価な調度品は、実際のところ価値ではなく社会的欠陥と捉えられ、無名の職人がつくる素朴な日用品に宿る「用の美」こそ最も健全な美しさだと柳宗悦は説いた。
ただし素朴な日用品と言えど「用」と「利」は似て非なるもので、生活の必然から生まれた用は美へと通じるが、生産者の利をまず据えた態度、大量生産大量消費の使い捨て工業製品のように利が先にあるものは最も美から遠ざかる。



|自然のデザインと民藝の構造
用の美は人が自然界の形に美しさを見出す感覚とも共通しているかもしれない。
鳥の羽、葉脈、貝殻の螺旋、川の蛇行──それらは全て、美しさの為の形ではない。
それは機能と合理の極致であり、生命の維持と環境への最適解だ。自然の美しさは、最適化されたかたちに自ずと然るに備わっている。
民藝の器や織物や道具などもまたそれと同様に、使い心地、持ちやすさ、壊れにくさ、作りやすさを合理的に追求したかたちが、結果として自然と美を帯びる。
|芸術との違い
この民藝の立場は、いわゆる「芸術」とは対照的だ。
芸術にとって美しさは目的であり、それは作り手の意志や思想、個性の発現が重視される自我と創造性が問われる領域で、「私はこう表現したい」という強い欲求が作品の核になる。
芸術は作り手の主体を通じて美を生み出そうと試み、民藝は主体を超えた場所に美を見いだそうとする。柳宗悦は民藝の本質をこうまとめた。
「美を追うのではなく、美に追われる。」
美を追いかけるのが芸術の本懐なら、民藝というものは美の方から向かってくるもの、ということだ。
|芸術としての庭──重森三玲の到達点
この「美を追うか、美に追われるか」という違いは、庭という空間においてもはっきりと示される。
20世紀を代表する造園家・重森三玲は、庭を明確に芸術の対象として捉え直した。
彼は自然の素材を自らの作品作りのデザインパーツとして扱い、それらを構成的・抽象的に再編成し、「見る」ための庭として設計した。
それはまるで絵画や彫刻のような空間であり、彼の作庭とは土や木や石と対話しながら組み立てるものではなく、図面の上で描き上げるものだった。
そして完成時と変わらず同じ姿を留めることを良きこととした。
その新たな試みと作品のインパクトは、日本庭園の世界的再評価へと繋がったわけだが、「個」を前面に押し出すその姿勢は多くの反発も呼び、作庭された寺院の住職も当初難色を示していたという話もいくつかある。
重森にとって庭は自然からの恩恵を得る場ではなく、自身の表現装置とみなし、この庭空間の再定義は以降のランドスケープデザインにも大きな影響を与えた。


|美に追われる庭──民藝的な発想でつくられる庭とは
しかし、庭には民藝のような思想と通じる美のあらわれ方もあるはず。
過度のオリジナリティや声の大きい意匠は控え、素材の声と場の呼吸に耳を澄ませながら構成する。
飾ることよりも、場との関わりを重んじ、見せることよりも過ごしやすさを大切にする。
意匠に頼らずとも用を追求すれば自ずと美も備わる。
歩きやすく、掃除がしやすく、光と風がよく抜けること。腰を下ろす場所があるならそこに木陰も欲しいだろう。窓辺に香りのある花木があるなら窓を開けた時の喜びも増す。
時と共に変化する状況を柔軟に受け入れられる余白も残したい。
完成の一瞬のインスタ映えに手を叩いて終わりではなく、そこに暮らす人が最後まで楽しみ抜ける庭というのは、そういう庭だ。
良い庭は、施主やその家族の愛情を注がれその関係性の中で、美を追わずとも美が追ってくることとなる。
そして言うまでもなく、施主だけではなく、毎年手入れを行う職人のその手つきにも庭は敏感に反応する。
|剪定の仕方
木の剪定は、可能な限り同じ人間が続けて行うのが望ましい。
その都度手をかえられては木も戸惑うだろう。毎年違う人間が触り、方向性が定まらず安定しない庭木はよく見かける。
木というのは種類はもちろん個体ごとにもそれぞれ固有の癖や樹勢があり、毎年向き合うことで少しずつその性質が見えてくる。
積み重ねた理解があるからこそ、次の一手に迷いも無くなる。
剪定の仕方にも、「美を追う姿勢」と「美に追われる姿勢」とがある。技術の巧拙にかかわらず、自らの手で枝ぶりを美しく整えようと意気込んで切られた木は、たとえ見事に仕上がったとしてもどこか硬く不自然で、職人の我が透けて見えてくる。
それに対し、自らの腕前を誇示するのではなく木に従い、その本来の姿をそっとあらわすように整えられた木は、一見して剪定の跡すら分からぬほどだが、静かに場に馴染み、自然な美を漂わせる。
|これからの庭
庭の用にはさまざまな形態がある。
住宅、寺院、店舗、旅館、それぞれにふさわしい庭のかたちは異なる。鑑賞を主目的とした庭も当然あり、庭をつくる作業のなかには「美を追う姿勢」も必ず含まれる。
だが同時に、民藝的な考えを念頭におきつつ「美に追われる空間」を志向することも、これからの庭には大きな魅力をもたらすはずだ。
近年雑木の庭がブームとなっており、自然回帰型で解放的な、林の中のような空間が多く求められるようになった。
これはまさに重森三玲が広めた価値観に対する時代のカウンターであろう。
雑木の庭であれ、どんなスタイルの庭であっても、民藝的志向を持つ庭の美しさは、作者が追って掴んだ美ではなく、用を追求し、見栄えよりも用のために創意工夫し、使われ続け育まれ続けてより深く宿っていく美だ。
美を先に置いた庭づくり、デザインありきの庭づくりは、一見華やかでも、やがて“飽き”や“劣化”を招き、芯からの居心地の良さにはつながらない。
SNSが普及し、そのバーチャル空間で人々は他者の自己顕示欲に大量に晒され、すでに辟易している。ほっと息をつける場でありたい庭空間においても作者や職人の我が前面に出てくるというのは、今の庭に求められている姿ではないと思う。
柳宗悦の考えた健全な美は、無為な手仕事からのみ生まれるもので、美術館の中に収められるでもなくブランドショップのショーケースに並べられるものでもない。
日々の暮らしの只中に、台所や作業場の中にこそ息づいている。
美しい庭もまた高名な作庭者が作った有名な寺院の中にだけあるわけではなく、ガーデンコンテストでトロフィーを受けるものでも無い、どの家のどの庭も、美しく育てることができる。
用に従い作られ、よく手入れされながら時間を重ねた庭には、年月を経るごとに味わいと信頼が宿る。そこに暮らす人が行う日々の掃除、木を剪定する職人の手入れー繰り返し、繰り返し関わりつづけるその関係性の積み重ねから美は静かに滲み出てくる。





コメント